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STORY

たかせ物語り

〜「住工房たかせ」ができるまで〜

1章
手先が器用な少年。

1977年3月、髙瀬家の次男として誕生。
2つ上に兄、5つ下には弟の3人兄弟の真ん中として、自然豊かな西条市吉井地区でのびのびと育ちました。厳格な両親のもと、兄にくっついて野山を駆け巡ったり野球をしたりと遊び回っていましたね。
モノがない時代でしたから、おもちゃは自分たちで作っていました。この頃から、手先が器用で「剣」や「盾」「竹の水鉄砲」「輪ゴムの銃」を制作したりしていました。
弟が買ってきた雑誌の付録も私が組み立てていた記憶があります。
3月の早生まれなので、同級生の中でも成長がゆっくりで、幼いときはあまり目立つことが好きではない控えめな子どもだったと思います。

小学一年生の時は、45分の授業に耐えられず血尿がでたり、鉛筆はかじって歯型だらけ。学生時代の勉強で良い思い出は1つもありません(笑)。
勉強が得意なわけでも、運動ができるわけでもなかったのですが、中学入学をきっかけに野球部に入部。このことで運動神経が飛躍的にアップし、人前に出ることに苦手意識がなくなってきました。中学3年生の時の担任の先生の勧めもあり、丹原高校に進学しました。

2章
人生のパートナー
あかねさんに出会う。

高校ではバスケ部に入部しました。高校3年生の時、人生のパートナーとなるあかねさんと交際をスタートしているのですが、1年生の時、彼女はバスケ部のマネージャーとして入部していたものの、この時は存在も知りませんでした(笑)。(あかねさんは、すぐにマネージャーを辞めて放送部へ)

さらに、2年生の時はあかねさんと同じクラスなのに1度も話すこともなくクラス替え。ここまで意識をしていなかったのですが、3年生の時の体育祭の応援団で同じチームに。私は、応援団長をしていたこともあって、夏休みの間の練習などを通してあかねさんと仲良くなりました。
幼い頃は目立つことが苦手だった私が、友人に少し担がれたにせよ、こんな風に応援団長をするようになるって今考えても不思議な感じがします。

そして、体育祭の打ち上げの時に私から告白して交際がスタートしました。それからは、仲間と遊んだり一緒に下校したりと毎日仲良く過ごしていましたね。
高校も卒業の時期が近づくにつれて、それぞれの進路が気になりはじめるように。

あかねさんは、大阪の短大に進学することになっていました。私は、当時、テレビなどの影響で料理人になろうとほぼ決めていたのですが、よくよく考えると、なんと私は生魚を素手で触れないのです(笑)。匂いとか、ぬるっとした感触がどうしても苦手で・・・。
さすがに素手で魚に触れない料理人は微妙だなと。料理人になることを諦め、小さい頃から器用なこともあって、建築の専門学校に進学することになりました。
私が進学した専門学校は広島県にあったので遠距離恋愛のスタートです。

あかねさん

実は告白される前から気になる存在になっていた昌典さん。体育祭当日のフォークダンスで退場の時にはペアになり・・・ドキドキでした。でも、門を出るとパッと手を離されたので「やっぱりムリか〜」と思っていたらその日に告白!!
私にとっては、その退場シーンが忘れられない一コマですが、昌典さんは全然記憶にないらしく・・・9月になると思い出す青春の1ページです。

3章
大工になる

専門学校を卒業すると次は就職です。私もあかねさんも地元での就職を考えていました。あかねさんは幼稚園教諭の資格を大学で取得しましたが、就活がうまくいかずにひとまず今治のスイミングスクールに就職することに。

私は、大手ハウスメーカーに就職が決まっていました。専門学校で学んだことを活かせる現場監督見習いとして就職したかったのですが、初めは営業を担当することになっていました。そのことが納得しきれず、ある時、髪を切ってもらいながら美容師さんに「就職したくないんです・・・」と愚痴をこぼしました。すると、その美容師さんは、ちょうど美容室を建てるタイミングで、その店舗を建てる工務店の社長と引き合わせてくれたのです。
今治の工務店に伺った時に、メーカーとは違い、工場もあって現場もある。さらに、この工務店の社長の建物への熱意・情熱も伝わって、ここで働けると面白いかもしれないと直感的に感じました。

そして、大手のハウスメーカーへの就職を辞退して、この工務店に就職することに。両親は大手の方が安定していて安心と思ったようですが、自分の「やりたい!」と思った直感を信じることにしました。
そこで晴れて現場監督見習いとして働きはじめたのですが、なんてったって、現場を知らないので、大工さんとのコミュニケーションがうまく取れないのです。このままではいけないと思い、社長に「大工になりたい」と直談判して、大工として現場に入らせてもらうことにしました。

この時の判断は今でもよかったなと思っています。建物の納まりも分かりますし、現場の大工さんとも「元々、大工なんです」とコミュニケーションが取れる。数年後には現場監督に戻りましたが、この時の経験が今の自信になっています。
人生で、何度かターニングポイントと思える機会がありますが、一つはあかねさんに出会ったこと、もう一つがこの工務店で働くことになったことや大工になったことですね。

就職して3年経った頃にあかねさんにプロポーズをして、晴れて夫婦になりました。

あかねさん

実は、プロポーズしてもらった時、ようやく幼稚園教諭になることが決まっていて、今のタイミングじゃないなって、一度、保留にしているんです(笑)。2級建築士の資格を取得してから結婚しようって言ってたのですが、資格も取れていないし・・・って。でも、翌年には合格したので、結婚して勉強に集中できたのがよかったのかもしれませんね。

4章
住工房たかせ誕生

就職して5年目の時、次のステップを見据えてお世話になった工務店を退職しました。実は専門学校の時から家具に興味があったんです。今でこそいろいろな家具ショップがありますが、当時は家具だけで生計を立てることが現実的ではないように思えて諦めていました。しかし、チャレンジをしてみようと思い、宇和島の職業訓練校の木工科に入校。

「仕事を辞めようと思う」と言った時、あかねさんは私の気持ちを尊重してくれ、宇和島の訓練校に嫌な顔せず送り出してくれました。その上、実は仕事を辞めてすぐに長男を妊娠していることが分かりました。私が退職したことによる生活の不安に加え、初めての出産への不安も抱えながら、実家に身を寄せ西条で待ってくれていたあかねさんには今でも感謝しています。
宇和島の訓練校に入学して3ヶ月後の7月に無事に長男が誕生。その日は訓練校の仲間に「授業を受けている場合じゃない」と急かされ、授業を休ませてもらい、病院に駆けつけました。おかげで、生まれたばかりの長男を抱くことができたのです。

月〜金曜までは宇和島で過ごし、土日は、西条に戻る暮らしを1年間続けました。土日に西条に帰ると今治の工務店時代にお世話になった方のおかげで仕事があって、カーポートを作るなどの比較的小さめの仕事をこなして生活をしていました。約一年の訓練校を終えて、卒業時の作品展では愛媛県知事賞を受賞しました。
卒業したら就職をと考えていましたが、訓練校で学んでいる時から新築を建てる案件の仕事がありました。それで、自然と独立する流れになりましたね。2004年3月に卒業をして4月に会社を設立。設立前に社名を考えていた時、ふと『住工房たかせ』が降ってきて、「これだ!これでいこう!」という感じで屋号が決まりました。『住工房たかせ』は工務店ですが、この経験を活かして家具を造作することも多々あります。

5章
事業の転換期

卒業と同時に受けた仕事は、はじめの工務店に勤めるきっかけになった美容師さんの自宅の施工だったのですが、その後も、あかねさんの姉の家だったり息子の保育園の友達の家だったりと、仕事がぽんぽんと舞い込んできていました。

しかし、仕事をとる営業にも数字をみる経営にも素人だったこともあり、数年後には事業として成り立たなくなっていました。忙しいのに利益が少なく、しかも従業員を2人抱えている。当然、自分たちの給料は払えない。「なんのために仕事をしているのだろう・・・」という時期が続きました。「たかせはもう終わった。」そんな声も聞かれました。苦しい状況の中、長女の誕生が何よりの喜びでした。でも、仕事をどうにかしなければ…と思う日常は変わらず…。

藁をもすがる思いで全国の工務店さんが集まる勉強会へ足を運ぶようになりました。まずは、その場で出会った先生や同業の仲間たちからのアドバイスにより、自分が変わるきっかけを頂きました。そしてもう一つは、地域のボランティアやPTA活動に一生懸命に取り組むことにより自然と感謝の気持ちが生まれてきて、周りからも「丸くなったね」と言われるようになってきました。気がついたら体も丸くなってましたけどね(笑)。

自分や仕事以外のことにも時間や体力を使えるようになりました。そして、自分が変化したことで周りに人が集まってきてくれるようになり、同時に仕事の依頼がくるようになりました。以前は、営業がしんどくて、お客さんともコミュニケーションを取るのが大変だなと感じている時もありましたが、そういったしんどさがなくなりました。また、お客様の家を建てるときに、どこかで「自分の作品作り」をしている感覚があったのですが、今はその感覚もなくなりましたね。それから数年後には、経営状態も回復していきました。

あかねさん

息子が1歳になった頃に、保育園に預けて、私も幼稚園に復職しました。同時に住工房たかせの事務の手伝いもする事になりました。その時、会社に「お金がない!」ことが分かり、そこから経営について社長と一緒に考えるようになりました。
毎月の支払いの時には、各業者さんにお願いして支払いを待ってもらう事もありました。今でもお付き合いのある協力業者さんのおかげで細々と辞めることなく続けてこれたのだと思います。
仕事がない時もあったし、2人だけでしている時もあったので、今思えば辞めてもよかったのかもしれません。でも、なんだか意地があって。「どうにかしなくちゃいけない」という気持ちが大きくて、どうにかしてきたように思いますね。

「たくさんの人に自分たちを知ってもらうためにはどうしたらいいだろう?」と、念願の自宅を建てた時には、事務所や自宅を解放してよくイベントを開催していました。その時、出店に協力してくれた人たちも今では自分たちでお店を出したり、地域のために頑張っていたりする方たちです。その中でも、私たちの事務所の隣でカフェとしてチャレンジしてくれていた「くらしとごはんリクル」さんにおいては、「たかせの隣のリクルです」ではなく、「リクルの隣のたかせです」となるほどの人気のカフェに!現在は丹原町へ移転され
「SOILIKKLE」さんとして進化し続けています。

6章
住工房たかせのこれから

住工房たかせのコンセプトは<育みの家>です。これは、表立っては出していなかったのですが、創業から3〜4年経った頃から私の心の中にありました。この<育みの家>は、五感を育むというところからきています。

住工房たかせは自然素材を中心に家を建てています。昔、大工をしていたとき、作業場に舞い上がった床材のベニアの木屑が原因で、くしゃみが止まらなくなることがしばしばありました。また、断熱材の作業をした時には、断熱材のガラス繊維が身体中に付き、チクチクしてその日は仕事どころじゃなかったことなど、身をもって建材が人体へ与える影響を体感しています。

子どもからご年配の方までの五感を育む、<育みの家>というコンセプトは共通ですが、創業時にたくさん子育て世代の住宅を建ててきたこともあり、とくに安心して子どもを育てられる環境を提供していきたいと思っています。それが私たちの責任でもあると思っているからです。人生の8割は建物の中で過ごすと言われていますが、もし、その建物が粗悪だったら・・・。

今も「ベストな自然素材は何だろう」と試行錯誤しながら家を建てていますし、これからも自然素材を使い、お客様が安心して暮らせる家を建てていきたいと思っています。自分たちの手の届く範囲で、大切な人に大切な家を届けたい。そう思いながら事業を続けています。とくに、会社を大きくしたいっていう野望のようなものはないんです。ただ、地域に貢献できる会社ではありたいと思います。

あかねさん

住工房たかせを創業した頃、長男の保育園の保護者の方々、私からするといわゆるママ友が家を建てるタイミングで、たくさんの家を建てさせていただきました。そのことに対して、実父に「どこの誰かも分からないあなたたちに、一生で一番大きな買い物である家を任せてくれるのはすごいことだよ」と言われたことがあります。まさにその通りだと思ってます。当時、実績がほとんどない私たちに、大切な住宅を任せてくれたみなさんには今でも感謝の気持ちでいっぱいですね。創業から20年を迎え、その時の子どもたちが大きくなって、次は家を建てるタイミングになってきました。その世代に「家を建てるなら住工房たかせさんだよね」って言っていただければ、こんな嬉しいことはないですね。

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